S-Fマガジン2010年8月号
浅倉久志追悼号。
浅倉さんの訳した作品5編(キース・ロバーツ「信号手」、R・A・ラファティ「田園の女王」、リチャード・グラント「ドローテの方程式」、ロジャー・ゼラズニイ「このあらしの瞬間」、ジェローム・K・ジェローム「自転車の修繕」)の収録に加え、伊藤典夫、森優、鏡明、高橋良平の追悼エッセイ、大森望、中村融、山岸真による追悼エッセイ+収録作品解説、そして浅倉久志翻訳作品リストまでついている。浅倉さんは生前、自分で自分の仕事をノートにつけて記録していたらしく、おそらくそれがベースになっているのであろう翻訳作品リストは「浅倉久志・編」のクレジットになっている。
しかし、読んで考え込んでしまう特集でもあった。翻訳家の仕事とその役割について。
浅倉さんの翻訳がうまいと誰もが言う。そこに何ら異論はない。実際、読んでいても実に自然に読める。でも少なくとも僕は、よくわからない。翻訳がうまいということについて、原文もない状態で、自然に読める文章を手にしていて、それが凄いことだということがどうも頭に入ってこない。作品自身の面白さを越えた浅倉さん自身の手腕のようなものは感じづらい。
もちろん、翻訳作品のなかには技工を凝らした訳業というのもある。もとの作品に仕掛けられた技工を日本語に翻訳するにあたってこうした、という仕掛けもあろう。極端な例を挙げれば、「eを全く使わずに書かれたvoidという作品」を「イ段を使わずに訳した」『煙滅』という作品のように。そういう訳業もそれはそれで素晴らしいが、浅倉さんの翻訳家としての方向性そのようなものではなく、できるだけ翻訳家の姿が消えるような自然な翻訳が理想だったと伺っているし、少なくともここで選ばれた作品は、一読してわかるような大げさな仕掛けで読者を驚かせるような作品選択にはなっていない。浅倉さんにそんなものは不要なのだ、ということなのかもと思う。だがそれだけにその訳業の凄さというのは伝わりづらい。
ヘタな翻訳というのは一読して分かるが、うまい翻訳というのはその「ヘタな翻訳の少なさ」としてしか読者の目には見えてこない、ということああのかもしれない。改めて読み返せば、原文がどうであったのかすらわからない自然な日本語となっているところなど本当にすごいことだと思えるのだが。おそらく翻訳の経験があればあるほどこの凄さというのはわかってくるものなのだろう。
そんなことを考えさせられた特集だった。