翻訳「Science Fiction is the Only Literature People Care Enough About to Steal on the Internet」

This entry was posted by on Friday, 2 April, 2010

ふとコリイ・ドクトロウのエッセイを翻訳した。本来の目的はちょっと別だったのだが、「とりあえず」と読んでいるうちに、特に昨今、作家たちがtwitter上でやり取りしているあたりが思い出されてきて、これを訳すのはなかなか面白そうだと思った。訳はあんまりちゃんとしていない。

初出は海外SF情報誌《ローカス》2006年7月号だが、電子的に公開されている版の書籍”Content“収録分を元にした。したがってこの文章はクリエイティブ・コモンズ3.0 帰属・非商用・継承のもとに公開される。

「サイエンスフィクションは、読者がインターネット上での盗用に気を使う唯一の文学だ」

サイエンスフィクションの書き手として、どんなニュースもぼくに希望をもたらさない。その可能性をたたきのめす。多機能でユビキタスな有力媒体のどこにも、SFという文学の場所がない未来。

ラジオとレコードが発明されたとき、当時のパフォーマーにとっては最悪のニュースだった。ライブパフォーマンスにはカリスマが要求される。群集の前で惹きつけるようなショーを実際にやるための能力が。技術的にどんな演奏をしたかは問題じゃない。ステージの上でお地蔵さんみたいにつっ立っているようなライブは誰も見たがらない。逆に腕前はまあまあでも勢いよくパフォーマンスができたら成功した。

ラジオはミュージシャンに取ってははっきりいいニュースだった。ミュージシャンが増え、音楽が増え、より多くの聴衆に届き、多くの金を生み出すことができた。演奏は産業になった。芸術に技術が与えられるとこういう事がよく起こる。ただ、カリスマにとっては最悪のニュースだった。ラジオはカリスマたちをストリートにとどめて、ハンバーガーを焼いたりタクシーを運転したりする仕事に縛り付けてしまう。彼らもそれを知っていた。パフォーマーはロビー活動をしてマルコーニラジオの禁止を求め、マルコーニを製図板に戻し、ラジオでも利用料を徴収できるようにした。「我々はカリスマだ。最初の洞窟、最初の火の前で語られた最初の物語とおなじ古く神聖な行いをする者だ。我々を単なる事務員にし、あんたがたが我々のかわりに聴衆と歓談するのを見過ごして薄暗い裏方で働かせようなんて権利がどこにある?」

技術は与え、技術は奪い去る。70年が経ち、Napsterがぼくたちに見せてくれたのは、ウィリアム・ギブスン曰く「記録された音楽にたいしてお金を支払うことができると信じられる時代の終焉に私たちは立ち会っているのかもしれない」。確かにぼくたちは時代の終焉にいる。払いたくない人たちを排除できた時代の終焉だ。どんな音楽でもリリースされたならピアツーピアネットワークから無料でダウンロードできる(また将来はもっとダウンロードが簡単になるだろう。ハードディスクのコストパフォーマンス曲線が教えてくれるのは、いずれ記録された音楽をぜんぶポケットの中の使い捨てドライブに持ち歩いて、友達のところまで歩いていってコピーさせる時代の到来だ)。

だが恐れる必要はない。インターネットによって、レコーディングアーティストはこれまで夢にも見なかったほどの多くの聴衆に自分の音楽を届けられるようになった。君の潜在的なファンは、薄い膜のようにして、これまでのマーケティング手法ではコスト的に見合わなかったような形状で世界中を覆っている。ところが、アーティストにとって客に届けるコスト、客にとってアーティストを見つけ出すコストを引き下げるインターネットの能力によって、これまで以上に遥かに多様な音楽が届くようになった。

こうしたアーティストたちはインターネットを使うことで、またかつての舞台演芸の全盛期のようなライブパフォーマンスに人々を戻すことすらできる。レコーディング(コントロール出来ないもの)を使ってパフォーマンスというコントロールできるものに駆り立てるのだ。このやり方はグレイトフル・デッドやフィッシュのようなジャムバンドでうまく行っていたやり方だ。こんにちのアーティストの多くでは上手くいかないやり方でもある。70年に及ぶ淘汰圧の結果、アーティストたちはカリスマではなくて名演奏家になって、パフォーマンスベースの稼ぎ方ではなくレコーディングベースの稼ぎ方に最適化してしまった。「よくまあ僕たちに、猿回しの猿になってステージで飛び跳ねろなんて言えるもんだ。僕たちはカリスマじゃない、ホワイトカラーだよ。僕たちは閉じた部屋のなかで自分の音楽性と交歓し、出来上がれば自分の製品を引き渡す。プラスチック製の、レーザーで刻まれたディスクにね。それをライブパフォーマンスのモデルに置き換えようなんて要求する権利は君にはない」

技術は与え、技術は奪い去る。MySpaceのバンド、とくにレコード業界との契約なしにハコを満杯にして数十万枚のディスクを売り、ファンとじかにつながっているようなバンドが明らかにしたのは、インターネットでは音楽の新しいマーケットが生まれつつあって、そこではこれまで以上にクリエイティビティについての管理者が少ない。

けっきょく、それが著作権の目的なのだ。芸術をつくらせる人の非集中化。著作権以前の時代はパトロンの時代だった。芸術を作れるのはローマ法王とか王様とかがそのテイストを好む場合だけだった。この時代にも素晴らしい天井やらフレスコ画が作られたが、それも芸術のコントロールを市場に受け渡すまでだった。1710年に制定されたアン法によって、複製された作品への独占権がパブリッシャーに与えられ、投下資本ベースの芸術によって作られるクリエイティビティの爆発が起こった。実業家は誰が芸術を作ることができ、誰ができないかということをうまく裁定できないが、それでもローマ法王よりは上手くやった。

インターネットは、芸術を作らせる人々についての集中をもっと排除している。文化にかかわるものに関するテクノロジーの変化がどれもそうであるように、この変化は一部のアーティストにはいいことで、それ以外には悪いことだった。重要な質問をふたつ。もっと多くの人が参加するようになるだろうか? アーティストに関する意思決定についても集中化はもっと排除されるだろうか?

SF作家とファンのための質問をもうひとつ。「それって僕たちの選んだ手段にとってもいいことだろうか?」既に述べたように、サイエンスフィクションは読者がインターネット上での盗用に気を使う唯一の文学だ。サイエンスフィクションという文学は、スキャンされOCR認識され精魂込めて書き写され、アングラニュースグループに、ロシアのウェブサイトに、IRCチャンネルに、ありとあらゆる場所に現れ続ける(もちろん、イラストや技術書なんかも活発だ。ただ私はここではフィクションについて考えている。これは私の友達が技術出版やジョーク本関係をやるときの希望の兆候ではあるけど)。

書き手の中にはインターネットのSFとの親和性を強い力に換える者もある。ぼくは自分の小説をみんなクリエイティブ・コモンズライセンスで公開することで、ファンたちに広く自由に公開してもらっている。たまにリミックスしたり、新しいバージョンを作って発展途上国で利用したりといったことさえある。ぼくの最初の小説『マジック・キングダムで落ちぶれて』はTorで6刷になったが、ウェブサイトからは65万回以上ダウンロードされ、他のウェブサイトからは数えきれないぐらいダウンロードされている。

ぼくは多くの書き手が発見したものを発見した。本の電子版を公開することで出版された書籍の売上も伸びる。SFの書き手にとっての最大の問題は無名であって海賊版じゃない。こんにち作品に自分の自由時間なり金銭なりを消費しないことを選んだ人たちのうち、大多数は存在そのものを知らないからそうしたのであって、誰かが無料版を手渡してくれたからではない。

それで、どんなタイプのアーティストがインターネットでは成功するんだろう? 読者と個人的な関係を築き上げることのできるタイプだ。サイエンスフィクションが長いことやってきたみたいに、イベントでも出演者控え室なんかじゃなく一般参加者といっしょにたむろするプロだ。こういう会話に長けたアーティストはあらゆる分野に現れるだろうし、彼らはそのカリスマと技術を魅力的に組み合わせるだろう。自分のオンライン人格によって、他では替えの効かない親しみやすい関係を客と築くことが出来る。けだるい午後の暇つぶしには映画やゲームや書籍なんかはどれでもいいけど、もしある小説の著者が君の友達なら、その小説をまず取り出すはずだ。これがまさに、打ち破ることのできない競争上の優位性なんだ。

ニール・ゲイマンのブログを見るといい。ゲイマンは数百万もの読者との会話を成功させている。チャールズ・ストロスのUsenetのポスト。スコルジーのブログ。J・マイケル・ストラクジンスキーはUsenetに――バビロン5の製作中に――やってきて、熱狂的なファンを養成し、頭の固いテレビの重役人にFAX攻撃を送りつけさせ、降伏させ、配信させた。MySpaceでバンドが買ってくれた人を「友達リスト」に加えることでCDを数百万枚売ったのを見るといい。Eric FlintがBaen Barを運営する方法を見るがいい。ウォーレン・エリスが自分のサイトをリストをうまく成長させたのを見るがいい。

全てのアーティストが自分の聴衆のためのオンラインサロンを頑張るということはないだろう。全てのパフォーマーがラジオに乗り換えたわけじゃなかった。技術は与え、技術は奪い去る。SF作家は未来に浸っていると思われている。この変化をしっかり捉える準備が出来ていると思われている。未来は対話的だ。あまりにもいいものが沢山ありすぎて、1クリックで立ち去ってしまったり、クリックもせずに済ませたりすることができるようになると、ある本がいいということを知るだけでは足りない。インターネット時代、もっとも交換可能性の低い物品は個人的な関係だ。

対話が、コンテンツではなく対話が神なんだ。もし無人島に取り残されることになったとき、友達でなくレコードをあえて選ぶなら、反社会的と呼ばれるだろう。読者との会話を取り持つサイエンスフィクション作家は一生安泰だろう。

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