ニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』

This entry was posted by on Sunday, 26 April, 2009

アメリカン・ゴッズ 上 / アメリカン・ゴッズ 下

神は存在する。身近に。

人々が存在を信じることで神は生まれる。神の力は人々の信仰心。信じる人のいるところに神は出現する。じゃあみんなが信じるのをやめると? 力を失っていき……やがてひっそりと、誰にも知られずに死んでいく。

そもそもアメリカに人間はいなかった。ネイティブ・アメリカンがやってきてトーテムを信仰した。ヴァイキングがたどり着いたが、彼らは北欧神話の神々を崇めた。アイルランドの移民、アフリカから連れてこられた黒人、みなそれぞれに神を奉じた。そういう移民たちの信仰に連れられてアメリカにも神は来た。そして人々は、そうした神を忘れた。そして、現代。主人公のシャドウは3年ぶりに刑務所を出てきて、ひょんなことからウェンズデイと名乗る不思議な老人にいざなわれ、神たちの壮絶な戦争に巻き込まれることになる。アメリカに移住した人間がかつて信仰していた、滅びかけの古い神々と、ハイウェイとかテレビとかクレジットカードとかの神、現代のアメリカを象徴する新しい神との戦いに。

ていうのがニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』の大まかな設定ということになる。けれども、そうやって大上段に構えると何かおかしい。帯にもグローバリズムだの消費社会だの新自由主義がどうこうと書いてあるけど、実際のところそんな真面目な本じゃないですね。全体的ににじみ出る諧謔、どこかすっとぼけているけど愉快な神様たち、脇を固めるキャラクターの魅力、そういったものが楽しい。

ただ、こういう設定って、日本だとけっこう見かけるわけですよ。八百万とか付喪神とかと相性がいいからかもしれないが、ともあれそういうのに慣れた身からすると、ゲイマンは少し、既存の神に対する愛着が強すぎる印象がある。アナンシとかレプラコーンとかオーディンとかチェルノボグとか、その辺の描写は魅力たっぷりなのだが、対する新しい神の印象がどうも茫洋として定まらない。一応出てはくるんですけど、なんかまあ、普通の人っぽいわけ。こういう設定なら、そこをもっとちゃんと描いてこそじゃないかという気はするんだよなぁ。ただし、ゲイマンが書きたかったのは、アメリカにそういう古い様々な神々がいて右往左往している、という情景だったのではないかという気がする。そういう目的であるとすると、目的はうまく達成されている。なにより出てくる神様がそれぞれ魅力的で楽しい。それと様々なバックグラウンドを持つ人達がそれぞれの理由によってアメリカに到着し、それぞれに神を信仰する、ということが挿話的に語られていくのだが、下手すると本編よりこっちの方が面白いかもしれないぐらいで、とくに上巻にあるエシィの物語は絶品でした。

結末についてはなんか既視感を感じるのだけど、あれかな、ヒューゴーやネビュラを取ってて、当時「アンサンブル」のメーリングリストでも話題になってた気がするから、加藤逸人さんか誰かからあらすじを聞いてたのかなあ。そういうわけで結末に驚きはなかったが、驚きはなくても意外なことに感動的な結末で、これもよかった。サムのパートが個人的には好きですね。

ちと長いですが総じて良くできた佳品です。

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