自分の状態に名前をつけること
ときどき何もできないことがある。
メールを読んで、Google+を眺め、twitterをチェックして、ニュースとかを読み、Google+にコメントをかいて、メールを読んで……みたいなのを繰り返し、一歩も進めなくなる。そんな時がある。
そんなこんなであるとき、なんか今日、メールとか読んでばっかりで全然仕事できてないんですよね、などと愚痴っぽく話したところ、それはもろに射撃しつつ前進だねと指摘された。そんな話だったっけ?とすっかり忘れた頭で読み直したら全くそのとおりの話だったのでおかしかった。忘れすぎだ自分。
射撃しつつ前進というのは優れたエッセイだと思うけれど、けっきょく何が言いたかったのかはよくわからない。最後のデータアクセスストラテジーがどうこういう話、ありゃ何なんだろ。正直、いまだによくわからない。今回これを書くために読み返してみたけれど、やっぱりよくわからない。
多分(私にとって)大事なのは「ただ始めること」というこの一文だ。このエッセイはここで終わってよく、そこから先のイスラエルがどうこういう箇所も別に読まなくていい。まあ、そうでないとエッセイのタイトルの意味はわからないけど。
そんなふうに読みといて、しばらく時間が過ぎて、またメールとヒマツブシとの往復状態に陥りそうになったときに「あ、これはまた射撃しつつ前進のアレだ」と気づいて自分を軌道修正したことがあった。てかまあそういう状態や復帰は頻繁にあるわけだけど、自覚的にこれは「アレ」だと気づいた瞬間があった。それを何度か体験するうち、それで自分の間違いに気づいたのだった。
「射撃しつつ前進」が重要なのは、タイトルがキャッチーで記憶に残るからだ。エッセイの質とか内容とか語りとか、ジョエルがどんだけエライとか、そういうことはこの際関係はない。
こうやって何もできなくなりそうな時というのはだれにも訪れる。……と思う。まあ自分にはよく訪れる。何も出来ない状態にも幾つかのパターンがある。謎の問い合わせがわんわん来るとき。ミーティングだらけで身動きが取れなくなるとき。面倒くさくて先延ばしにしていた事務手続きをやらないといけないとき。あとメールとヒマツブシで時間が消えるとき。
重要なのは、それぞれのタイミングを場合分けすることだと思う。こういうことが起こると、そのたびにどうにかこうにかやりくりして、抜けだしたりはまり込んだりしている。そのときそのときに、どうにかしないといけないと思って重い腰をあげる。クリアな場合分けがされていると、「ああこれは同じ状態だ」とわかったりする。わかる、ということは案外と大事で、わかることでルーチン化された対応策を見つけることができる。別な見方としては、例えばヒマツブシで身動きがとれないとかいうのは心理的な問題なので、「これさえやれば脱却できる」という思い込みさえあれば、実際に脱却できるのだ。
ただし、人間というのはストーリーを求めるものなので、これをこれから状態1とよぼう、というわけにはいかない。なんとなく自分にとってわかりやすい名前があったほうがいい。今日ははてブとウィキペディアをだらだら見るだけで何もしない全く生産的でない日だった、という言葉はちょっと長くて、もっとキャッチーで短く、把握のしやすい名前が望ましい。例えば、「あ、これは射撃しつつ前進だ」という風に。
名前は短く把握しやすければ何でもいい。自分のために使うものだし、自分しか使わないものだ。「射撃しつつ前進」というのは身動きがとれない状態ではなくて、そこから脱却するためのメソッドだったと思うので、この使い方もまるっきり大間違いなのだけど、別にそれはそれでいいのだ。
人間は名前をつけることで相手を理解する、という素朴な信仰がある。なんだかよくわからないモノをなんだかよくわからないままに取り扱うのは人間にとって負担がとても大きい。だからとにかく無理やり名前をつけてしまうべきである。などということを私は思う。
私にとって技術エッセイの主たる価値というのは、そういう先人たちの知恵を借りて、自分の状態に名前をつけることなのかもしれないと思った。