Made by Hand
Made by Hand ―ポンコツDIYで自分を取り戻す (Make: Japan Books)
Makeの編集長、マーク・フラウエンフェルダーによるDIY体験記エッセイ。芝生を家庭菜園にしてみたり、エスプレッソマシンを改造してみたり、にわとり小屋を作ってみたり、発酵食品にチャレンジしてみたり、楽器を作ってみたり、9章からなるエッセイ集。DIYの読み物ってーと、絵図面がバンバンあるようなガイドが多いけど、この本は完全にエッセイ集だ。読んでも何かの参考になりはしないけど、こういう生き方もいいかもな、というのも気分にさせてくれる。
著者は実に様々なことに挑戦しているけれど、なにより語り口が常に楽しげなのがいい。何か自分もこういうことをやってみたい、そんな気分にすらさせられる。にわとりを買ったりなんて、東京の都市部ではありえないわけだけど、それすら楽しそうだ。
だが、同時に強調されるのは、常に失敗と隣り合わせだということだ。著者は楽しげに語るが、失敗は必ずある。やばい瞬間はいつもある。DIYはコストと成果物の質を考えれば見合わない。むしろDIYは、したいからしているという意味合いが強いようにも読める。例えば、
私がアマチュアの冒険に踏み出したとき、DIY仲間からこう忠告された。失敗は必ずするが、それに負けてはいけないと。私はよくわかっていたつもりだったが、自分がやらかす失敗の数については見積もりが甘すぎた。実際、失敗をしないことがない。どんなに簡単で小さなプロジェクトでも、失敗はキノコのように次々と顔を出す。
とか、
ワゴンの製作に午後いっぱいの時間がかかった。その時間を使って原稿を書けば、工場で生産されたピカピカのワゴンか二台や三台は買えただろうが、私はなにも、時間やお金を節約するためにワゴンを自作したわけではない。大切なのはスローダウンすることだ。DIYは、二〇年前にイタリアで始まったスローフードのムーブメントに似ている。計画、道具と材料の選択、作業場所の確保、作り方、資材、そして最終的なDIY作品、これら全てによって味が出る。労力は出費は二の次だ。
とか。
読んでいて、Makeのバックボーンにはこういう文化があったのだと思った。日本のMakeには、こういう文化的背景がかけているのかもしれない。去年、たまたまいい時期にベイエリアに行って本場のMaker Faireを眺めて、雰囲気が違うなと思ったのだ。もちろん根本的に違うというのではなく、スペクトラムの差でしかないのだが、その違いをうまく言語化できなかった。その違いというのが、アメリカのDIY文化なのかも……と思ったりする。ずぶの素人がこういうことに手を染めるというのは、日本では嫌われる気がするし。そういう意味で極めてアメリカンな本だ。
面白いのは、著者があくまでも素人芸の域を出ないでいることだ。というと悪い言い方みたいだが、著者はわざとこの位置にとどまっているのがいい。各エピソードでは、いろんな専門家が顔と口を出す。エスプレッソの専門家は、家庭にあるようなしょぼいマシンではいいエスプレッソは作れないという。著者はちゃんと稿を割いて専門家の言い分を説明する。なぜそうなのか。何が問題なのか。すべてが明らかになったところで、でも著者はその先には行かない。その道の人の目的は完璧なエスプレッソを作ることであって、そのためにはまず例えば高い機械を買うのが必須だ。それはわかった。でも、と著者は一歩引く。やりたいのは、家庭用のエスプレッソを改造して、そこそこいいエスプレッソを作ることだ。専門家の話を聞くことで、なぜ高い機械が家庭用のしょぼい奴よりいいものができるのかがわかったから、そのエッセンスを汲めば家庭用のをうまく改造できるかもしれないし、できたら嬉しい。そういうスタンスが本書では貫かれている。
そういう思想に共感できる人なら、この本はとても楽しく読めると思う。