ドクトロウ『リトル・ブラザー』の現代性
というわけで、前にも書いた『リトル・ブラザー』の翻訳がついにというかようやくというか刊行されるらしい。
実はこの本については、早川とは違う出版社も翻訳するかもという話があって、そちらのレジュメを作ったりした経緯があったりしたのですが、そちらの会社はいろんな事情で見送り、早川が翻訳権を獲得したという事情もありました。実のところ、原書で読んだ時にはもうひとつピンとこなかったし、レジュメを作ったときも、同じようにピンと来てなかったのでピンぼけなレジュメになってしまったのが見送られた一因のようにも思われ、早川から出ると聞いたときも「大丈夫なんかな」というのが正直なところでした。
ただ今回、あらためて(日本語版を)読む機会に恵まれたのですが、当時のアメリカとちょっと違う文脈かもしれないとはいえ、今の日本でも充分に受け入れられるんじゃないか、と少し考えが変わりました。
あらためて読みなおしてみて、第一の感想としてはこの本はまったくもってポスト9・11小説だな!というところでありまして、なんせサンフランシスコのベイブリッジがテロで爆破され、第二愛国者法が成立、テロとの戦いという名目のもとに国家安全保障局が国民を監視・統制していくというストーリー展開は、まさにアメリカが9・11で体験した恐怖と恐怖への反動をなぞるものです。ただ、この9・11への思いというのは、どうにもぼくらには……というか、はっきり言うとぼくには根本のところでピンと来てない感じがあるな、というのも読んでいて思うわけです。そりゃもちろん、9・11をテレビで見て唖然とし、なにが起こるのだろうと不安な気持ちを抱きました。あの後しばらく、アメリカへの入出国がとても厳しくなって、あんなので効果あるんかいな、なんてことも考えたりしていました。だがやはり、アメリカ人はあの事件に特有の思いがあるのではないでしょうか。ま、ドクトロウはカナダ人なんですが……。
だけど、ぼくらをとりまく環境が変わってきたのではないだろうか。
twitterがものすごい勢いで流行し、Facebookも流行のきざしを見せ、ネットがリアルの世界に浸透してきた。一方で、たとえばエジプトの騒乱でも政府がインターネットの利用の規制を行い、国外の様々なハッカーが活動し、結果的に規制がある程度は無効化されたりした、という報道がありました。ウィキリークスで大騒ぎになったのも記憶に新しい。また、Facebookで実名でない仮名を使っているアカウントを大量に利用停止にするというのもありました。政府が人々の自由を規制し、インターネットを制限するといった現象は、さいわいにしてアメリカでは発生していないですが、このような事件に対して僕らがいだく「そういうこともありそうだな」「本当に起きたら嫌だな」という感じ、そういう感覚も広まってきたんじゃないかと思うんですね。その感覚こそが、この本を読む上でいちばん大事なことであり、その感覚が共有できるなら本書は面白い。
いまこの時期に本書が訳されるのはぶっちゃけたまたまなんですけれども、結果的にはこの時期で正解だったんじゃないか。そんなことを思います。
いまこそ、『リトル・ブラザー』を読んでみてください。なにか考える切っ掛けにはなるんじゃないかと思います。おすすめ。