カレン・ジョイ・ファウラー『ジェイン・オースティンの読書会』

This entry was posted by on Sunday, 27 December, 2009

というわけで『高慢と偏見』を読んだ。これが初ジェイン・オースティンである。そのまま返す刀でほかのオースティンを読む……という気にはなれなかったが、そういえば以前映画版を見ていた『ジェイン・オースティンの読書会』を読んだ。大森望曰く「独身SF男子は全員読むべき本」だそうなので、身に覚えのある未読の人は、オースティンを読んだ経験の有無に関係なく読んでいただきたい。

ジョスリン、バーナデット、シルヴィア、アレグラ、プルーディの女性五人と独身SFファン男性のグリッグの六人でジェイン・オースティンの読書会が開かれる。持ち回りで月一回、主催者の家に集まって一冊の本を語り尽くす。オースティンは六本の作品を書いたからひとり一回、半年かけてオースティンを全て読み返すというわけ。それで読書会でみんながあれこれ語るのを描きつつ、そこから各登場人物の人生や背景があぶり出される。

この本はまずもって読書会という文化を描いている。読書会って馴染みのない人にはとことん馴染みはないと思うけど、ようするにみんなで集まって一つの作品について語り合うっていうものだ。司会がいることがあるし、レジュメをちゃんと作る場合もある。真面目にいろいろ考える人達もいるし、気軽に読書を楽しんで感想を言い合うだけの場合もある。その辺はメンバーの人となりによる感じ。本書の登場人物はわりと好き勝手にしゃべっていて、けっこう脱線しがちで、日常のおしゃべりとあまり変わりがない。読書会の目的はいろいろだと思うけど、この本で描かれるのは、あまりお堅いもんじゃなくて、ごく自然に本をみんなで楽しむっていうもの。ジョスリンの言葉を借りるなら「ふだんの生活にもう一度オースティンを取り入れてみる」っていう程度だ。この本の真骨頂はやっぱりこの、あんまり真面目すぎない読書会描写にもあるような気がして、読むとやっぱ読書会っていいかも、って思う。あとほら、オースティンを生活に取り入れると「配偶者とか恋人をもつ身」になれるらしいので(笑)。

もちろん、読書会が本の主題ではあるけれど、物語の目的はそこじゃなくて、各人の物語にある。これがまたオースティンの作品と重ね合わされるっていうところがキーになる。といっても、読書会の合間に描かれるそれぞれの話はそれぞれに現代アメリカらしい話で、正直なところイギリスの田園で作られたオースティンの作品っぽいところは特にない。でもところどころが不思議と重なったり、オースティンの書いた言葉がうまく当てはまったりする(ようだ。オースティンは上で書いたように『高慢と偏見』しか読んでいないので細かいところはわからないけど)。

ところで本書はベストセラーになって映画もつくられた。映画版は以前、どこかに行った時の飛行機の機内で見た。ストーリーはおおむね一緒で、ただ本書は時間の順序が前後した若干ややこしい語りになっているのに対して、映画はわかりやすく直線的になっている。それと、映画版はグリッグとジョスリンの恋愛に焦点を当てている感じでラストに向けて盛り上がっていく感じなのに対して、小説はもっとキャラクターを公平に扱っている気がする。あと映画版はオースティン・ボールみたいな小道具がいくつか欠けていたような。

もうひとつ、この本でどうしても指摘したいポイントは、本書の人称と語り手の問題だ。この本は基本的に三人称で語られるが、ときどき「私たち」という語り手が登場する。たとえば「私たち」は「私たちの誰も知らない」グリッグという男をジョスリンが誘ったことに驚き、プルーディがオースティンのことを「ジェイン」と呼ぶことに馴れ馴れしさを感じる。でもその私って、私たちって、誰よ? 「私たち」は読書会メンバーの誰かだが、構成員は毎回変わって、全体を通して共通する人物はいないようになっている。つまり、明確な「私」という語り手や「私たち」という語り手グループがいるわけではない。けどこの「私たち」という人称があることで、本書の語りは三人称であるにも関わらず神の視点というほど超然ともしていないもっと卑近な視点になっている。起きた事柄を脇で見ているような、「私たち」としか言えない語り手。実体のない「私たち」=語り手は、読書会メンバーの場の空気みたいなものだとも思えるし、読書会にまぎれこんだ七人目の見えない参加者なのかもしれない。訳者あとがきでは、読者を巻き込んだ視点であって、「私たち自身が読書会に加わって」いるような気にさせてくれると指摘されている。

ただ、個人的には興味深いと思うのは、「私たち」には少なくともグリッグが含まれていない点だ。グリッグは読書会メンバーのなかで唯一の男性だし、オースティンなんて読んでないSFファンで、しばしば空気の読めないとんちんかんな発言をする。グリッグは最後まで「お客さん」な印象をぼくは受けたし、グリッグの内面はあまり描かれない。せいぜいが「ひょっとしたら、私たちもみんなル・グウィンを読み始めるかもしれない」ぐらいで、「グリッグはわかっていない」やつなのだ。ぼくは男性だが、こういう点は読んでいてかなり意識されたし、「私たち」は読者である自分ではない「女性たち」だと思った。読者の性別によって、この本の「私たち」という人称に対する感覚はだいぶ異なるのではないかと思う。このあたりの問題は誰か真面目に検討してもらいたいところ。

余談1。ぼくの読書会体験というと学生時代のSF研のものと、読書部っていうやつ(mixi内にコミュニティがある。最近またちょっと再開したみたい)に顔を出したり出さなかったりするぐらい(あとAtoZ読書会に行ったことがあったりとかそんなもん)だけど、この本の読書会とは雰囲気がかなり違う(笑)。白水社は、本書が出たときに「読書会のススメ」なる特設ページを作ってて、当時も読んで思ったし今あらためて見てみても、ぼくの知ってるのとはだいぶ違って苦笑してしまう。圧倒的多数が女性ってこともないしなぁ。なぜだ、なにが悪いんだ。とりあえず、公民館とかじゃなくて誰かの家に集まるべきなのかもしれません。

余談2。そういえば技術系の勉強会のなかには「読書会」という名前のものがたまにあるけど、この手の文芸の読書会と技術書の読書会は違いますね。技術書の読書会は輪講というほうが近い気がする(どっちも英語ならreading clubで結局一緒という説もありますが)。

Comments are closed.