「高学歴ワーキングプア」について思うこと

This entry was posted by on Thursday, 14 February, 2008

トラックバックを受けて、読んでみたら否定的な文脈で紹介されていたので紹介するとともに、少し考えたことを書きつけておく。 http://narratorian.jugem.jp/?eid=26

まず、自分の文章を読み返してみたところ、ぼく自身のスタンスがわかりづらかったので一言で言うと「博士は、自身の専門知識やアカデミックポストへの拘りは捨てて、ふつうの会社でふつうに働けばいいしそうするべきである」というのが、大雑把なぼくの考えである。

指摘されて思い出したのだが、確かに水月さんは「博士には専門性を生かした職業を」という主張をしていたような記憶がある。でも、それってナンセンスじゃないか。また、トラックバックしてくれた藤原さんという人は大学の講師をもっと増やすべきだという主張をしているように読めるけど、これまたナンセンスではないだろうか。

先に大学について。日本はどんどん少子化の傾向が進んでいる。学生はどんどん減る傾向にある。大学経営の詳細はよく知らないけれど、大学そのものが潰れたり統廃合したりするのがこの後の展開として想像されるわけで、講師の口なんてのはむしろ減る方向にあるだろうというのが健全な予想じゃないだろうか。そうでないにせよ、単に「博士が余ってるから」という理由で講師を増やせなんて主張は、ぼくにはとても正当には思えない。そうすることによる大学のメリット、それだけの雇用を増やすことの正当性はどこにあるのだろう? 相手にとってメリットのない発言は単なる駄々じゃないのか。

次に、専門性を生かした職業というけれども、そういう社会的なニーズがあれば博士たちは真っ先に飛び付くだろうと思う。そんな職がないからみんな困っているのだ。そういうのは絵に描いた餅というのではないか。わたしには水月さんの主張は、ちっとも説得力も現実味もあるようには見えなかった。そもそも専門分野によっては社会的なニーズがさっぱりない分野というのはあるわけである。そういう人はどうすればいいわけ? まさか国が職を斡旋せよという馬鹿な主張をしたいわけでもあるまいし。

つまり(今、ここで迷っている博士たちに焦点を絞れば)問題になっているのは「社会的にはまったくニーズのない専門知識について何年も研究をつづけて若い時期を過ごしてしまった人たち」をどう社会に還元するか、っていう問題だと思うのです(ついでに言えばそれは博士だけに限った問題ではない)。

誤解してほしくないですが、ぼくは「社会的にまったくニーズがない」と「価値がない」はイコールだとは思っていない。今の世の中では必要とされていないし、今後もぜんぜん必要とされないかもしれない研究っていうのは、やっぱり必要なのです。科学の発展とか、そういう視点においては。

ただ、そういう研究に従事している人に「これはこのまま続けて卒業しても仕事はないだろうな」っていうミクロな視点がないのはやばい。それはまじでやばい。だいたいふつう研究してたらわかるだろうそれくらい、ってぼくは思うんですが、水月さんの本を読んでいて気付かされたのは、どうやら「自分は高度な知識を有するのである」という下らないプライドに振り回されている人は実はいっぱいいるらしい。研究の価値とか面白さと、社会でその専門知識を生かした職を得られるかってのは当然別問題で、それは当たり前だと思ってたんですが……。

話を戻すけど、「専門性を生かした職に就けないか」なんてのは誰でも試していることで、そこまでは前提なんじゃないですか。「でもそれは難しいよね」っていうところに問題が高く聳えているわけです。それでもチャレンジする人はするけど、けっきょく諦めて専門分野を捨てて、ふつうに仕事を選べばいいんじゃないかと思うね。それに捨てるっていうと言葉は悪いけど、べつに仕事と学生時代の専門分野を直結しないというだけのことではないかと思うんですよ。

ただね、ぼくの主張で世の中まるく収まるという話ではありません。仮に当の博士たちが腹を括ったとして、企業にしてみれば特に業務に詳しいわけでもない30手前の学生が応募してきて雇うだろうかという問題。それにやはり、博士は「専門性を生かしたポスト」がイコールになるという認識が強いから雇いたがらないという局面もあるでしょう。だから、いまここで余ってる博士をどうするかというのが問題になるわけで、そうした踏み込んだ議論はぜんぜんしていなかったと思うけど。だから単なる恨み節に聞こえるんじゃないですかね。

あとひとつだけ。国策として大学院生を増やしていたのに卒業したらそのまんま捨てられちゃうのは惨いという主張がある。それはまったくその通りだと思う。でも嘆いていたって仕方ないでしょう。べつに自己責任だとかいうレッテルを貼りたいのではなく、嘆いてないで今の地点からなるべくいい着地点を模索するべきじゃないですか。そしてその「着地点」というやつにアカデミックポストしかないのが問題なんじゃないでしょうか。

 

ちょっと個人的なことを書きたい。

ぼくは研究分野がいちおう情報系で現職はソフトウェアエンジニアだから、まさしく専門性を生かした職に見えるかもしれないけれど、それはちょっと誤解だ。ぼくが学生時代にやっていたのは知能ロボットとかヒューマン・ロボット・コミュニケーションとかいった、悪く言えばうわついた研究だった。そういう研究と今の職業は同じコンピュータを使うといっても物凄く遠い。精神病の研究で博士号を取った人がいきなり外科医で開業するのと同じくらい違うと思う (医学を知っているわけじゃないが)。

この日記では Haskell や Ruby といったプログラミングの話題や FreeBSD/Linux の話題、計算理論の話題なんかをときどき持ち出していたけれど、あれはまったくの趣味で、研究とはまったく関係ない。単に好きだからやっていたわけだ(システム管理についてはそういうアルバイトもやってたけど)。ただあの当時、このまま研究者になるならいいがそうでないなら潰しが効かなくなるな、という漠然とした不安もちょっとはあった。それに自分は研究者には向かないんじゃないかという悩みもあった。

結果的にはそういうところで得た知識もあったことで現職を得られたんではないかとぼくは考えている。ようするに「学業」やら「研究」やらの余暇に保険をかけていたわけで、保険が効いたわけだね。ちなみに現職では、博士号を持ってるからどうこう、ということは全くありません。

だから「専門知識を捨てて職を得る」というのは自分の体験を書いているつもりである。ぼくと同じようにして上手く行くとは限らないし、そうすることが誰にとっても幸せなわけではないだろう(ぼくだってもう一度同じ状況になって同じように上手くゆくとは限らない)。結果的には上手く行ったやつが上から目線で語ってるように見えるかもしれない。ただ、そういう事例もあるということを紹介したくて書いてみた。

One Response to “「高学歴ワーキングプア」について思うこと”

  1. narratorian

    http://narratorian.jugem.jp/?eid=33
    トラックバックが受け付けていただけないので、こちらにURLを記しておきます。